2017年7月〜

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埼玉新聞の読者が選んだ名勝負
埼玉大会編1位は第82回大会決勝の春日部共栄―浦和学院


埼玉新聞社が今夏、全国高校野球選手権第100回大会を記念しホームページ上でアンケートを実施した
「読者が選んだ名勝負」は1838票が集まり埼玉大会編、県勢夏の甲子園編のそれぞれ上位7試合を選出した。

埼玉大会編の1位は129票で第82回大会(2000年)決勝の春日部共栄―浦和学院。
「世紀の投手戦」「歴代史上最高の決勝戦」と語り継がれる共栄・中里と浦学・坂元の本格派右腕同士の投手戦は、坂元に軍配が上がった。
1―1の延長十回裏、浦和学院は丸山が中里の直球を中前にはじき返し、二塁走者の坂元がホームを踏み、2―1でサヨナラ勝ちした。

2位は第70回大会(1988年)準決勝の浦和市立―川口工。浦和市立が6―5で競り勝ち、決勝も制し初優勝。
甲子園でも4強まで進んだ。3位は第79回大会(97年)4回戦の上尾―松山。
上尾・中村と松山・島田の投げ合いは延長十七回裏に大山の適時打で2―1と上尾がサヨナラ勝ち。

県勢甲子園編1位は141票で第99回大会(2017年)準決勝の花咲徳栄―東海大菅生(西東京)。
徳栄が6―6の延長十回に3点を勝ち越し勝利。決勝では広陵(広島)に圧勝して悲願の埼玉勢初優勝を飾った。

2位は第70回大会準々決勝の浦和市立―宇部商。浦和市立が延長十一回表に横田の3点三塁打などで4点を勝ち越し4強に進出した。
3位は第75回大会(1993年)決勝の春日部共栄―育英(兵庫)と第95回大会(2013年)1回戦の仙台育英―浦和学院。
春日部共栄は2―3で敗れ、惜しくも県勢初優勝ならず。
浦和学院は甲子園春夏連覇を目指したが2年生エース小島の乱調で10―11でサヨナラ負けした。

★2000年決勝両監督の思い
平成の名勝負と言われる2000年、第82回全国高校野球選手権埼玉大会決勝。
浦和学院・森士監督、春日部共栄・本多利治監督にとっても、忘れられない試合として記憶に残っている。

森監督は、「執念が実った試合だったことは間違いない。指導者としても大きな節目だった」と振り返る。

2年連続準優勝。
今回は絶対に負けられない。がっぷり四つのしびれる展開に、森監督は緊張感を漂わせていた。
「七回、自分の中で突然恐怖に襲われて、鳥肌が立ってきた。戦慄(せんりつ)が走ったのを覚えている」。その時の心境を告白した。

「2年連続で決勝で負けていて、それでも諦めないでついてきてくれた選手たちに、今日もし負けたら、なんて言えばいいんだと。
そういうことが頭をよぎってしまった」というのだ。

ただ、その思いは選手の姿を見て消え去る。
「ぱっと背中越しにベンチの選手の姿を見た時、散々、ああじゃない、こうじゃないと常に文句を言われてやってきた選手たちが、
『俺たちはやることをやってきたんだから、負けるはずがない』と、勝利を疑う姿が一つもなかった。
それを見て、逆に自分が勇気をもらった。俺がこんな風に思っていたら負けちゃうぞって。勝つためにはどうしたらいいのか。それだけを考えた」。

そして、運命の延長十回で決着。チーム全員でもぎ取った勝利に、「十回の攻防は全ての集大成だった」と言い切る。

投げ切った坂元については、「弥太郎を信じていた。7月に入ってから、確かに変わった。
それまでは苦しみもがいていたから。原点は素直さ。本当に素晴らしかった」と目を細めた。

本多監督は「あの負けは本当にきつかった」と一言。
「中里は練習が真面目でね。野球が好きで。俺の言うことを素直に聞いて、一生懸命やる子だった。甲子園に行かせてあげたかった。
周りも真面目で一生懸命やる子たちだったから、本当に行かせてあげたかった」と、かつての教え子だちに思いをはせる。

今でも十回2死満塁、島田のピッチャー返しを坂元に好捕されたことを鮮明に覚えている。
「センター前に抜けていたら、うちの勝ちだった。ツーアウト満塁だからね。それを相手は切り抜け、うちはものにできなかった」。
直後の守りでサヨナラ負けには「精神的な部分。やっぱり、えてしてあるね」。

浦和学院の気迫は認めていた。
それでも「うちも、中里で甲子園に行く。そんな強い気持ちでチームを育ててきた。意地のぶつかり合いだった」と、
プライドを懸けた試合であったことを口にする。甲子園で勝つチーム。本多監督は全国制覇を本気で狙っていた。しかし…、

「そこに弥太郎。弥太郎君がいたんですよ」

★あの夏プレーバック埼玉大会編 2000年第82回埼玉大会決勝
熱闘 世紀の投手戦


浦和学院
2−1春日部共栄


10
春日部共栄
浦和学院 1x

(延長10回)

運命に導かれるように、2人の投手がマウンドで相まみえた。浦和学院・坂元弥太郎と春日部共栄・中里篤史。
2000年の第82回高校野球選手権埼玉大会決勝は、ともに卒業後にプロ入りする才能あふれる両右腕の渾身の投げ合いとなり、
20世紀最後の大会のクライマックスを飾るにふさわしい名勝負となった。

延長十回、浦和学院が2−1でサヨナラ勝ち。勝利のホームを踏んだ坂元。その後ろで片膝をつく中里。
ドラマチックな結末だったからこそ、今でも強烈な印象を残し続けている。

★一歩も譲らず
7月30日、県営大宮球場は2万人の大観衆で膨れ上がった。切れ味鋭いスライダーを要所で決める坂元。
140キロ台の速球をテンポよく投げ込む中里。ハイレベルな投手戦は、四回に浦和学院が白椛豊の犠飛で先制すると、
六回に春日部共栄が市川周平のタイムリーで同点に追いつく展開。お互い一歩も譲らず、1−1のまま試合は延長戦にもつれ込んだ。

坂元は中里へのライバル心を消し、集中していた。
「中里君よりもいい投球をしてやろうという気持ちは一切消した。勝つために自分が何をすべきか。それだけを考えた」。
一方、同点に追いつかれてからは、「中里君からもう1点取れるのかと、後半は不安との戦いだった」と、当時の心境を口にする。

中里も必死だった。ベンチに帰ると、裏で体をほぐしてもらい、マウンドに立ち、戻ってくるとマッサージを繰り返した。
「先に点を取られて焦りはあったけど、同点に追いついてくれたので、これだったら、いけるかなという気持ちになった。
いい勝負、1点を争う勝負になるんだろうなというのを感じた」

それぞれの思いを胸に、十回の攻防を迎えた。

坂元は延長戦に入った時点で、再試合を考えていた。
「自分が十五回まで何とか抑える。再試合を覚悟しながら、抑えるために何をすればいいか。その一点張りだった」

★本能的に反応
十回表の守り、1死からショート前へのゴロがイレギュラーバウンドし安打となった。
「ついてない。これはやられるパターンだと思った。でも不安は全部振り払わないといけない。
マウンド上でそう思うとボールに出てしまう」。
務めてポーカーフェイスを振る舞おうとする坂元。しかし、春日部共栄打線は連打と四球で塁上を埋めた。

2死満塁。4番島田健一が左打席に入った。この日一番の場面に、球場のボルテージは一気に上がった。
心臓が絞られるような場面。それでも坂元は冷静だった。

島田に対して過去4打席を3三振に抑えていた。
「ずっとスライダーを振らせてきている。嫌でも彼の中で内角へのスライダーが頭にあるはず。
だから、外の一番遠いところを選択した」と外角低めへの直球を徹底した。

カウント1ボール2ストライクまでは狙い通り。しかし4球目が甘く入った。それを島田がとらえた。
強烈なピッチャー返し。打球はワンバウンドしてマウンドを襲った。
坂元は本能的に反応し腰を落とすと、とっさにグラブを出した。打球は吸い込まれるように収まった。
「あっと思った時、打球がグローブの中に入っていた」。ピンチを切り抜けた浦和学院。
春日部共栄は決定的な勝ち越し機をものにできなかった。

中里は次打者サークルで、その光景を見ていた。
「抜けると思った打球が捕られてしまったので、残念な気持ちは正直あった。
ショックをひきずるというものが、もしかしたらあったのかもしれない」。
気持ちを切り替えられないまま、マウンドに向かった。

この時、中里は秋に経験した2度のサヨナラ負けが頭をよぎったという。
「点を取られたらサヨナラ負けになってしまう。こういうときこそ、しっかり抑えないとという気持ちが強すぎた。

★サヨナラ気付かず
そして、運命の十回裏、浦和学院の攻撃に入る。

先頭打者は坂元だった。既に171球投げている右腕にバットを振る力はなかった。
しかし、中里は「投げ急いだ」と四球を与えてしまう。

2死後、3番山ノ内和広が中前打を放ち、2死一、二塁。
今度は浦和学院が一打サヨナラの場面を築いた。左打席に4番丸山亮太。

伝令が走り、マウンドに集まる春日部共栄内野陣。中里は直球勝負を決心した。
「真っすぐには自信があった。当時は自分の真っすぐが打たれて負けたらしょうがないと思っていた。
こういう時こそ、真っすぐ。狙われていたのは分かっていたが、高校野球は負けたら最後。悔いを残したくないという思いがあった」

カウント1−1からの137球目。中里は速球を迷いなく投げ込み、丸山はそれを狙い打った。
「頑張っている弥太郎を楽にさせたい」(当時コメント)との思いで振り抜いた打球はピッチャー返し。
十回表に島田が放った打球とほぼ同じ方向に、低く鋭く飛んだ。だが今度は中里のグラブは届かず、打球は足元を抜け中前へ抜けた。

「振りだした瞬間から走れ」との指示を受けていた二塁走者の坂元は、迷いなく三塁ベースを蹴った。
中堅手の島田の送球はストライクだったが、間一髪滑り込んでセーフ。浦和学院の劇的な勝利が決まった。

★勝利に涙
生還した坂元はぼーっとその場に立ち尽くした。
「正直、ランナーでいる時も、次の回を抑えることしか考えていなかった。だから一瞬、自分が生還したらサヨナラだということを
忘れていた。みんながわーっと来て、初めて優勝したんだと気が付いた。うれしいというより涙が出た。やっと終わったという思い」。
走り寄ってきた仲間にヘルメットをたたかれ、われに返った坂元は、両手を突き上げ、仲間と抱き合った。

ベースカバーに入った中里は、そのままひざまずき、肩を落とした。
「終わっちゃったなという感じ。ずっと張り詰めていたものが途切れてしまったような感じだった」。涙は一瞬だけ。
「自分が打たれて負けた。みんなに申し訳ないという気持ちだった」。泣き崩れる仲間に「ごめんな」と、声を掛けて回った。

2時間30分の激闘。埼玉高校球史に刻まれる名勝負は、こうして幕を閉じた。

名門チームの看板を背負って投げ合った、実力伯仲のエース対決。
明暗を分けた十回の攻防で、打球がグラブに入った坂元と、打球がグラブに届かなかった中里。
わずかな違いは「勝つために何をすべきかだけを考えた」坂元と、「抑えないとという気持ちが強すぎた」中里の
ほんの少しの意識の差だったのか。

サヨナラのホームインを気づかぬくらい、無心の境地で1球、ワンプレーに集中したエースに勝利の女神はほほ笑んだ。

★乗り越えた重圧
「ついに俺とおまえだけになったな」。
決勝直前、浦和学院の森士監督は坂元に語りかけた。チームはそれまで2年連続で決勝で負けていた。
坂元は1年からベンチ入りし、森監督とともに悔しさを味わってきた。

「最後の夏は絶対に勝つ」。しかし、浦和学院のエースとしての自覚とプライドは、重圧も生んだ。
秋はまさかの初戦敗退。春も準々決勝で敗れた。
「浦和学院は名門。強いからいい選手が入ってくる。負けたら自分がつぶしてしまう。背負うことの重圧に勝たないと。
でも、それを乗り越えられてこなかった」

夏の大会前、6月の練習試合は、「いつも10点以上取られていた」と森監督。
2年生には大竹寛(現巨人)がおり好調だった。「最終的に勝負どころは弥太郎ではなく、大竹かなと思ったくらい」と、
坂元の調子は上がらなかった。

復調のきっかけは大会直前に森監督から掛けられた言葉。
「ある日、監督室に呼ばれて、『男はいくら頑張っても駄目な時があるんだよ』と言われた。
それまで相当しかられてきた中で、初めて優しい言葉をもらった。
その瞬間、自分が背負っていた重苦しい重圧を前向きなものに変えられた」

それまでは、いい投球をすることしか考えていなかった。自分の能力に任せ、いい投球を投げれば勝てる。
しかし、それでは勝てなかった。「監督の一言で、自我を初めて取り払った。
いい投手になりたいという気持ちを捨て、勝つためにはどういう投球をしたらいいのか。それに徹することができた」

7月に入り、坂元の調子は上がった。森監督も「確かに変わった。変貌がすごかった」と振り返る。
大会に入ってから投げるたびに、直球の伸び、伝家の宝刀、スライダーのキレは増していった。そして、運命の決勝を迎えたのだ。

★天国の母との約束
それは、坂元さんが浦和学院に入学する1年前、夏の日の出来事だった。

「弥太郎のお母さんが中学の先生と本人と一緒に見学に来て、浦和学院にぜひみたいな話になった時に、お母さんが言ったんだよ。
『これで安心して天国に行けます』って」。森監督は静かに当時を振り返り始めた。

坂元さんの母和子さんは、がんを患っていた。入院先から学校へ足を運び、息子の将来を森監督に託した。
和子さんは病状を森監督にすべて話したという。

「責任を持って、3年間、お預かりします」。この時が、森監督が和子さんに会った最後だった。

和子さんは翌年2月に亡くなった。「弥太郎は、失意のどん底で入学してきた」

森監督は当初、坂元さんを寮に入れる方針だった。
寮ならば食事も用意されるし、野球に集中できる環境は整う。その話を坂元さんの父良也さんにした時だった。
「坂元家の希望を奪わないでください」。こう切り出されたという。

坂元さんは男4人兄弟の次男だった。
母親がいなくなった坂元家では、坂元さんが精いっぱい野球ができるよう、夕飯を作ったり、
母親がやってきたことをみんなで協力し取り組んでいた。
「一致団結して、弥太郎を支えることが、家族がまとまる元になっている。不備なのは分かっているが、やり尽くさせてください」と、
良也さんは森監督に懇願したという。

森監督は恵まれた環境で生活をするよりも、自宅から通った中で培われるものの方が大きいと、自宅通いさせることを決めた。

野球部全体でも坂元さんを支えた。「女房が作った弁当を弥太郎に食べさせてたし、同級生の親もみんな協力していたよ。
そこで仲間意識が培われた。一体感があのチームにはあった」

春日部共栄との決勝前日、良也さんは坂元さんに届けた洗濯物の中にお守りをしのばせた。
坂元さんはそれをズボンのポケットに入れて試合に臨み、ピンチになると、そっと触った。
「苦しい時の母頼みでした」。激闘を制し、悲願の甲子園出場を果たす。当時、埼玉新聞の取材に良也さんはこう答えている。
「よくやった。よく投げた。それしか言いようがない。これまでのすべてが凝縮されたようなゲームだった」。
この言葉に3年間のさまざまな思いが込められている。

甲子園でも54年ぶりの大会タイ記録(当時)の19奪三振という快投を見せ、プロへの扉も開いた。
それは和子さんの夢でもあった。

「母親を甲子園に連れて行きたい。そしてプロ選手になりたいと思い描きながらやっていた」と坂元さん。
周囲の支えとともに、天国から見守る母親との約束を果たした。

★2000年の激闘
エースが振り返る

宿命のライバル、浦和学院と春日部共栄が対戦し、名勝負となった2000年の第82回全国高校野球選手権埼玉大会決勝。
あれから18年、当時のエース、浦和学院・坂元弥太郎さん、春日部共栄・中里篤史さんにとって
あの激闘は現在、どのように映り、人生に何をもたらしたのか。7日開幕を前に2人に高校野球の魅力を聞いた。

★坂元弥太郎さん「諦めずに夢追う」
坂元さんにとって、一番思い出深い試合は、甲子園でもプロ選手時代でもなく、春日部共栄との決勝だという。
2年連続準優勝を経験してつかんだ悲願の頂点。
「野球人生の分かれ道だった。ここで負けていたら野球をやめていた。多分立ち直れなかった」。
まさに野球人生を懸けた試合だったと言っても過言ではなかった。

決勝を投げ合った中里さんには、ライバル意識とはまた違うものを持っていた。
「2年秋に実際に見て、ものが違うなと思った。ライバルというより、その上って感じだった」

甲子園の舞台に立つと、一躍全国に名が知れた。
1回戦の八幡商(滋賀)戦で、大会タイ記録(当時)の1試合19奪三振をマーク。実に54年ぶりの快挙だった。
2回戦で柳川(福岡)に敗れたが、16奪三振と2試合連続二桁奪三振を記録。プロへの道を開いた。
「重圧から解放されて、周りが見えるようになったのかもしれない。勝つことの大事さを、投球の楽しさに変えられた」と振り返る。

高卒でヤクルトにドラフト4位で入団。
その後、日本ハム、横浜、埼玉西武でプレーし、2013年に引退するまで13年間活躍した。
浦和学院の森士監督は「あの子の持っているポテンシャルからしたら、全てを出し尽くしたのではないか」と評価する。
一方、本人は「20年やりたかった」と話す。「だから、自分の夢はもう一度プロ野球選手になること」だという。

引退後、株式会社「アスリートプランニング」に入社。
三芳町にある同社の野球スクール「APベースボールワールド」で幼稚園児から小・中学生を対象に教えている。

指導者の道を選んだきっかけは、工藤公康・現ソフトバンク監督だった。
工藤監督は埼玉西武時代に一緒に過ごした。「できないことが多い子どもたちをトップ選手に育てることが一番難しい。
これができたら、どこでもやっていけるよ」。この言葉が坂元さんを突き動かした。

「この子たちをプロ野球選手にするために、僕がどうすればいいか。常に勉強です。
彼らとともにプロ野球選手になる。それが夢です」と第二の人生を熱く語る。

球児たちへの贈る言葉。
「今まで努力してきたことを全て出し切ってほしい。特に3年生はとにかく熱くなること。がむしゃらに最後まで諦めないで」。
高い意識を持ち、諦めなければ夢はかなう。坂元さんの人生そのものだ。

坂元弥太郎(さかもと・やたろう)

浦和学院入学後、「腕の振り、指先の感覚は素晴らしいものがあった」(森士監督)と才能を認められ、1年春からベンチ入りした。
3年次に出場した夏の甲子園では、1試合19奪三振と当時の大会タイ記録を54年ぶりにマーク。
2000年ドラフト4位でヤクルト入りし、その後は日本ハム、横浜、埼玉西武でプレーし13年に現役引退。
現在はアスリートプランニングに所属し、野球スクール、APベースボールワールドで指導している。川口芝中出身。36歳。

★探究心の追求を 春日部共栄・中里篤史さん
「今でも、あの試合を見たよとか、覚えているよとか言ってくださる人がいる。
甲子園に出られなかったことは悔しかったけど、今となっては、高校3年間の最後が浦和学院だったことはすごくいい思い出」。
中里さんにとっても、あの日の決勝は忘れられない。

高校野球引退後、浦和学院のメンバーと仲良くなった。一緒に食事に行ったり、家に泊まりに行ったりしていたそうだ。
成人してからも交流しているという。
「彼らの話を聞くと、うちよりも浦和学院の方が甲子園に向けての気持ちが強かったのかな」と口にする。

ドラフト1位で中日に入団。ヤクルト入りした坂元さんとはチームが対戦したときに食事に行くこともあったそうだ。
「神宮球場であいつが投げた後のマウンドで投げたことがあった。彼だけは高校からのつながりがあって特別な関係。
プロに入ってからも意識していた。彼の方が結果を残して長く選手生活を続けていたので、
僕が辞めた後も、頑張ってほしいという気持ちはあった。そういう意味でも、いい関係だったのかなと思う」。
この言葉に中里さんの人柄がにじみ出ている。

プロ生活はけがとの戦いでもあった。苦しいリハビリ生活を支えたのは高校3年間で培ったものだった。
「仲間と一緒に厳しい練習に耐えてやってきた。苦しいことから逃げずにやれという監督さんの指導の下でやっていたので、
けがやリハビリにしっかりと向き合うことができた。それが今につながっている」

2010年に巨人に移籍し、翌年に現役引退。現在は巨人のスコアラーとしての日々を過ごしている。
「野球を見る視点が変わり、勉強になっている。こういう仕事をしていると、あの浦和学院戦、
当時直球勝負で打たれたら仕方ないと思っていたが、今は違うやり方があれば甲子園に出られた可能性があったと思う。
この仕事になってから、いろいろと考えることがある」と話す。

この思いが球児へのアドバイスにつながる。
「高校3年間は特別なもの。みんな一生懸命ひた向きにやっている。ただ、それだけではなくて、自分、チームを
いろんな角度から見て、もっとこうした方がいいんじゃないかとか探究心を持ちながらやれば、良いところ、悪いところが見えてくる。
いい結果が出ると思う。そういうものを感じながら頑張ってほしい」。
中里さんならではの後輩たちへのエールだった。

中里篤史(なかざと・あつし)
一般受験で春日部共栄入り。
本多監督は「スピードが出る雰囲気がバリバリ。ボールの回転が素晴らしかった」とその才能にほれ込んだ。
2年秋の北川辺戦で15連続奪三振の完全試合(5回コールド勝ちのため参考記録)。
プロスカウトから注目された。2000年ドラフト1位で中日入り。将来のエースとして期待されたが、度重なるけがに苦しんだ。
10年に巨人に移籍し、11年に現役引退。現在は巨人のスコアラーを担当。朝霞市出身。35歳。

2018年7月7日 埼玉新聞掲載